翁の面は、天下泰平や五穀豊穣を祈る能の儀式曲『翁(おきな)』だけに使う、笑みを浮かべた老人の面です。演じる役者はこの面を着けて神となり、世の平和と豊作を祝って舞います。翁の面が縁起物とされるのは、面そのものがこの祝いの舞のためにあるからです。
ただ、翁の面は普通の能面と作りが違います。顎が口の横で切り離され、紐でつながっていて、口元が動くようになっています。なぜこの面だけがそんな形をしているのか。答えは、『翁』という曲が能の中でどれだけ特別な位置にあるかと関わっています。
『翁』は「能にして能にあらず」と呼ばれる特別な曲
『翁』は、「能にして能にあらず」と言われ、ほかの曲とは別格に扱われています。物語らしい筋はありません。神聖な儀式であり、演者は神となって天下泰平、国土安穏を祈る舞を舞います。
その成り立ちは、能より古い時代にさかのぼります。鎌倉時代に成立した翁猿楽の系譜を引くもので、古くは聖職者である呪師(じゅし)が演じていたものを、のちに猿楽師が演じるようになりました。能が形を整える前からあった祈りの芸が、今も能の舞台で受け継がれているわけです。文化遺産オンラインの解説は、翁舞の起源を平安時代の末頃までさかのぼるものとし、能が発展する源流に位置づけています。
曲の由来について、世阿弥は、聖徳太子に仕えた秦河勝(はたのかわかつ)の子孫の秦氏安(はたのうじやす)が、村上天皇の時代に三番の曲を作ったと書き残しています。現在は千歳、翁、三番叟(三番三とも書く)の順に舞われます。
上演の機会も限られています。正月の最初の催しや、新しい能舞台の舞台披き(ぶたいびらき)など、祝いの場で演じられます。翁を演じる役者は、上演前の一定期間、精進潔斎の生活を送って心身を整えます。楽屋の鏡の間に神棚を設け、切り火で清めてから舞台に向かいます。上演中は、観客も客席への出入りができません。観客もまた、神事に立ち会う者として扱われるのです。
音楽と言葉も、ほかの能とは違います。小鼓を三人で打つという変わった編成をとり、謡は「とうとうたらりたらりら」のような、意味を取りにくい呪文めいた言葉で始まります。正月や舞台披きのたびに、この面と一緒に、能より古い祈りの形がそのまま演じられています。
役者が舞台の上で面を着ける
普通の能では、役者は面を着けた姿で舞台に現れます。『翁』では、翁を務める役者は面を着けない素顔(直面、ひためん)で登場し、舞台の上で面を着けます。
- 露払いの千歳(せんざい)が舞う間に、翁役の役者が舞台上で翁の面を着ける。
- 面を着けた翁が、天下泰平と五穀豊穣を祈る静かな舞を舞い、舞い終えると退場する(翁帰り)。
- 続いて三番叟(さんばそう)が、まず面を着けずに揉ノ段(もみのだん)を舞う。
- 三番叟が黒式尉の面を着け、鈴ノ段(すずのだん)を舞う。
観客の目の前で人が面を着け、神に変わる。翁の面が、役を表す道具というより、神に変わるための面として扱われていることがよくわかる手順です。

白式尉と黒式尉の違い
『翁』で使う面は、主に白い翁と黒い翁の二つです。資料によって白式尉と書くものと白色尉と書くものがあり、どちらも同じ面を指します。
| 面 | 着ける役 | 顔立ち | 舞 |
|---|---|---|---|
| 白式尉(はくしきじょう) | 翁(シテ方の役者) | 白い肌に笑み。長いあごひげと大きな眉。下がった目はくり抜かれている | 五穀豊穣と天下泰平を祈る、静かで厳かな舞 |
| 黒式尉(こくしきじょう) | 三番叟(狂言方の役者) | 黒く日に焼けた、親しみやすい顔 | 大地を踏み固め、精霊を呼び起こす躍動的な舞 |
白式尉は気品のある神の姿で、黒式尉は日に焼けた親しみやすい顔をしています。同じ祝いを、白は祈りとして、黒は大地に働きかける力強い舞として表しているのです。
三番叟を演じるのが狂言方の役者であることから、黒式尉は狂言の面として数えられることもあります。一つの曲の中で、能の役者と狂言の役者がそれぞれ翁の面を着けて舞うのも、『翁』ならではの形です。
このほかに、肉色尉(にくしきじょう)と呼ばれる肌色の翁の面もあります。父尉(ちちのじょう)と延命冠者(えんめいかじゃ)という面もありますが、特別な演出で使われるだけで、今はほとんど使われません。

切り顎という独特の構造
翁の面の最大の特徴は、「切り顎(きりあご)」です。顎の部分が口の横から切り離され、上の部分と紐で結ばれています。この作りは、ほかの能面にはありません。
この形は、能面が完成するより古い時代の名残です。能の解説サイトは、翁の面の源流を能より古い翁猿楽の面に求めています。文化遺産オンラインの解説は、口の半ばで上下を切り離して紐でつなぐ手法を、雅楽の舞楽で使う面の影響だと説明しています。
古い翁の面には、その古さを示す記録も残っています。ベルリンの博物館にある翁の面には、面の裏の漆の下に弘安元年(1278年)の墨書があり、翁の面の造形が鎌倉時代の中頃には出来上がっていたことがわかります。東京国立博物館が所蔵する南北朝時代の黒式尉をX線CTで調べたところ、顎は鋸で切り離されていました。
眉やひげにも、ほかの能面とは違う工夫があります。眉、口ひげ、顎ひげが植毛された面や、眉にウサギの毛皮を貼っていた面が伝わっています。
翁の面が縁起物とされる理由
翁の面が縁起物とされる理由は、この面を着けて舞われる祝いの内容にあります。
- 不老長寿:鎌倉時代の中頃には、翁、三番叟、父尉の三人の老人が、天下太平、五穀豊穣、不老長寿を祝って順に舞う形ができていました。
- 五穀豊穣と所願成就:翁の面は、豊作や願いがかなうことなど、幸いを祝う翁舞に使われる面です。
- 鶴と亀の長寿:『翁』の詞章には「鶴と亀との齢にて」という一節があり、長寿を表す鶴と亀が歌い込まれています。
- 始まりの祝い:正月や舞台披きといった、物事の始まりに演じられます。
長寿、豊作、願いの成就、新しい始まり。翁の面には、祝いの意味が一つの顔にまとめて込められています。正月の飾りや、新しい家や店の門出の飾りと重ねやすいのは、このためです。
飾るときは、直射日光と湿気を避け、見上げるくらいの高さに掛けると、笑みの表情が引き立ちます。白と黒を対にして並べる飾り方もできます。京島の店でも能面と狂言面を扱っていて(店頭販売とお取り寄せ)、店頭の面はすべて試着できます。
よくある質問
翁の面はなぜ笑っているのですか?
翁の面は、五穀豊穣や所願成就などの幸いを祝う舞のための面だからです。能面の多くは喜怒哀楽のどれとも言い切れない表情に作られていますが、翁ははっきりと笑みを浮かべています。
白式尉と黒式尉は、どちらを飾ればよいですか?
決まりはありません。白式尉は祈りを捧げる気品のある神の顔、黒式尉は大地を踏みしめる親しみやすい顔です。飾る場所の雰囲気や、好みで選んでかまいません。
翁と三番叟は何が違いますか?
翁は能の役者(シテ方)が白式尉を着けて静かに祈る役で、三番叟は狂言方の役者が黒式尉を着けて力強く舞う役です。どちらも『翁』という一つの曲の中で舞われます。
翁の面と尉の面は同じものですか?
違います。どちらも老人の面ですが、翁面は『翁』だけに使う特別な面で、切り顎になっています。尉面は『高砂』などほかの曲に出てくる老人の面で、顎は切り離されていません。

仮面屋おもてで実物を見る
能面・狂言面は店頭での販売とお取り寄せを行っています。詳しくは能面・狂言面の販売・お取り寄せをご覧ください。店頭の面はすべて試着でき、着けたまま写真を撮っていただいても構いません。
- 場所 東京都墨田区京島3-20-5(キラキラ橘商店街)/京成曳舟駅から徒歩(道順)
- 営業 土日のみ 13:00〜18:00
- 通販 遠方の方は国内向けオンラインストアから
